「生駒の土」
昭和34年度卒業
芝合 学
我が近大野球部の大隣憲司がソフトバンクに自由獲得枠で指名された翌日、私は無性に生駒のグラウンドに行きたくなった。
後輩たちが練習するいつもの風景を見ながら、私はこれまで感じたことが無いほどの心の高揚を覚えた。かつての有藤(ロッテ)、最近では二岡(巨人)といった幾人かのプロ野球で活躍する選手を輩出してきた近大野球部は、日本で一、二を争う人気球団である巨人とソフトバンクが選手獲得を争うということは、その年で最も即戦力として評価された選手ということになる。初めて近大野球部からドラフトへの一番選手が出たのであり、この感激は正に感慨無量としか言いようがない。
私は何気なく足元の土を掴んでみた。この土がどれだけ後輩たちの汗を吸ってきたのだろう。いや、違う。土が吸ったのではない。後輩たちが土の持つ力を吸って、それをパワーに変えて成長していったのだ。その最高傑作が大隣憲司なのだ。その瞬間、私の目の前に50年近く前のあの時の風景が、かつて自分がいた世界が現れてきた。
新宮高校で二度甲子園に出場した私ですが、生来、胃弱ゆえに体力がつかず、大学での選手生活にピリオドを打つことになった時、当時のチーフマネージャー伊藤菊雄さんに言われました。
「芝合、お前、野球部のマネージャーをやってみんか。」
「えっ、マネージャー。マネージャーって女のやるもんじゃないんですか。」
「いや、違う。大学のマネージャーは、ただのお茶汲ではない。練習メニューの作成、練習場の確保、遠征先の旅館の確保、その他高校生のスカウトなど野球部が強くなるためのあらゆる事をするんや。」
余り気が進まなかったが、とにかくやってみることにした。
マネージャーの仕事として最初に直面したのが、練習場の確保であった。こ
う言うと皆さん方には不思議に思われることでしょうが、当時の近大には専用のグランドが無かったので、今日は山本球場、明日は尼崎球場といった具合で、正にジプシーとも言うものであった。
いかに素質の有る選手でも練習しなければ才能は開花しない。実力の有る高校生をスカウトしようとしても、練習場が無いという事だけで断られるかも知れない。これこそ、最初にして最も当たり前で且つ最大の難問であった。之を何とかしなければ近大野球部に未来はない。ここから私の奮闘が始まったのである。
野球はアメリカから来たもので、アメリカでは野球のことをベースボールと呼び、これは誰でも知っていることだが、何とも変なのである。ベースボールを直訳すると「塁球」となる。「塁球」が何故「野球」になったのか、ベースボールを「野球」と翻訳したのは、かの俳人正岡子規らしいが、実に的を得る訳だと思う。野球こそは野原で太陽の下、土の上、芝生の上でやるものである。ここに野球の原点がある。
人工芝ドーム球場を最初に採用した巨人が没落し、その輝きを失っていったのと対照的に、甲子園球場をホームグランドとする阪神が輝きだしたのは、野球の原点を守ったからだと私は思う。土こそ、野球のプレイヤーを育てる最大の要因に違いない。土の確保こそ私の大学生活の全てだ私は確信した。
余説ではあるが、最近でこそ駒大苫小牧など北国の高校の活躍が著しいが、かつては北海道はおろか東北の高校でさえ真紅の優勝旗を掴むことが出来なかったのは、雪国ゆえに土に恵まれなかったせいだと、私は思う。
しばらくして、奈良の生駒にいい土があることを聞いた。そこは、近鉄が所有しているらしい。なんとグライダーの練習に使っているとのこと。何ともったいない話である。この事を当時の松田監督が世耕総長に告げると「よし、やれ」、この命令が下りた。
早速交渉が始まった。しかし、むこうは日本有数の企業、こちらは近畿リーグの大学、果たして売ってくれるのであろうか。その可能性はかなり低い。しかし、我が校の将来の為にはやるしかない。当時の事を今振り返ってみたとき、地価の知識も売買の経験も無い私が、只々、若さと野球に対する情熱のみで、地権者に体当たりで、
「あの土地は殆ど遊ばせているだけでしょう。うちは選手を鍛えて大学日本一に成り、育てた選手をお宅に送り出し、お宅も必ずプロ日本一になって下さい。」
「それは面白い話です。本社と掛け合って見ましょう。」
こうして我が近大は生駒の土地を手に入れたのである。しかし、近鉄球団がオリックスに吸収合併されたのは記憶に新しい所である。
それから、練習の合間に業者と共にグランド造りが始まった。今思えば、我々が業者を手伝うというより、業者が我々をサポートしているような、どちらが本職か分からない様な仕事振りであったが、若さと将来への希望で一つも疲れを感じる事が無かった。
グランドが完成した時、疲れた顔をした者は誰も無く、みんなが笑顔で喜んだものであった。新しいグランドですぐに練習が始まり、それ以来、幾人の後輩がプロに向かったのであろう。これからは、プロを代表する選手、或いはメジャーリーグもきっと出て来るだろう。そして、我が近畿大学野球部は、この生駒のグラウンドが有る限り、永久に不滅である。
私は選手として何の足跡も残さなかったが、生駒の地に専用グラウンドという未来永劫に残るものを残したことが、勿論、私一人の力ではないが私が母校に残した何よりもの足跡だと思う。
更に、グラウンド開きは昭和33年4月、高野連会長佐伯達夫氏を始め、多くの野球関係者が集まり盛大に行われたことを付記する。